文章を書いたり、音楽やったり、デザインする仕事をしていると、「これはつまらねえな」と思うことと「うわー、この次どうしてくれよう!血が騒ぐぜ」と思うことが両方ある。
「これはつまらねえな」なほうは、なんだか予定調和なのだ。文章の場合だと、「言いたいことはまとまっているんだけど、文章を貫く明確な軸がない」という状態。一般論すぎるとか、単なる事実羅列のレポートでしかないときなど。そんな時、締め切りがない自分のブログや、クオリティ優先の記事などは、寝かせて発酵させる処置をとる。時間がたつとあるとき勝手に発酵するか腐るので、発酵したとき文章にすればいいと思っている。腐ったらそれまでの文章なので、いさぎよく捨てる。
ただ、仕事の場合だと、いさぎよくすてるわけにもいかないので、やむをえずわくわくしない対応(予定調和な対応)しかしないことが多い。俗にいう「やっつけ仕事」だ。できることは喜ばしいけど、「やっつけ仕事」をしていると、仕事に対するモチベーションは緩やかに下がっていく。続けるモチベーションが下がっていいことは、何一つない。
予想外な状況になっちまえば、プロセスを楽しめる
なんとなくだけど。「これは予想外な状況になっちまった」ほうが、「うわー、この次どうしてくれよう!」と焦る半面、血が騒いでけっこう面白いことになるんじゃないかなと最近は思う。
たとえば、即興演奏。
セッション形式のライブで、ものすっごい楽しそうに演奏している人の音をきいていると、必ず予想してない旋律やアクションを起こしている。そこで私も何かが誘発されて「これやったら楽しいんじゃないかな」と思うようになったのだ。
譜面命の文化の吹奏楽にどっぷりだった私は、セッションをはじめた2013年の頭には、最初は何をひいていいのかまったくもってわからなかった。けど、周囲の演奏をきいて見ていると、不思議と何かがしたくなるようになった。
「せっかく音楽をやっているのですから、音を出す事、そして音で会話すること、そのもののプロセスを心から楽しんでいいのです!」
http://saito-akihiro.com/?p=247
セッションをはじめた頃、斉藤彰広さんのジャムセッション講座へ行ったとき、「音での会話をする」という点に主眼がおかれていることにすごくびっくりした。
私は長年吹奏楽畑にいたゆえ、ソロ=うまい人がかっこいい主旋律を前もってつくっておいたうえで演奏する、アドリブ=決められた小節を前もってつくっておいた何かで埋めるもの、と思いこんでたのだ。その場でソロでアドリブを演奏できる人なんて、自分なんかじゃ到底たどり着けないと思っていた。
でも、アドリブ(ときにソロにもなる)が会話であるときいて、見方が180度変わった。ドとレだけでも会話はできるから音楽はつくることができる。そうか、私は一人でかっこいい何かをするのではなく、目の前のみんなと楽器で会話をしていけばいいんだ。そう思うと、楽器にむかうとき、気持ちがものすごく楽になった。
渋さ知らズ de 怖いもの知らズでワークショップに参加し、渋さしらズオーケストラの方と一緒に演奏したときは、音圧と周囲の音での会話の総量に圧倒された。ダンドリスト不破さんにソロをふられたときは散々のできだったんだけど、「azumiはずっと笑顔だった」と言われた。そのくらい、音での会話、想像してない何か見えたのが面白かった。
音の会話は、「これは予想外な状況になっちまった」になることばかりだ。今はワークショップの仲間と一緒に「新鮮な特殊編成大所帯楽団(踊りあり)」AOSABAというバンドを立ち上げ、ライブをしているのだが、毎回毎回思いもよらない何かがおきる。
自分がホールトーンにあわせた音をひいてたら、誰かが「祭囃子だ」と思ってのって、バンドの音楽が祭囃子になったり。舞踏にあわせて、音の出し方、和音が一つ一つかわっていったり。同じ曲でも、見える世界はいつも違う。
想像しえない新たな流れとその結果
「同じ川の流れの中に、二度入ることはできない。水は絶えず流れ続けているのだから。」
ヘラクレイトスはそういった。
曲をきいたり、文章を読んだりと「作ったものを受け取る」人は、その文章をはじめからうみだすためにその人が曲を書いた/文章を書いたように見えるかもしれない。でも制作者側からすれば、何かを生み出すために走り始めても、途中で新たな流れが見えて、思わぬ方向に作る物が成長していくことが多いのだ。
そして思わぬ方向に流れれば流れるほど、新しい発見が多くて、作ってる最中わくわくできる。いやいやではなく、楽しみながら作っているから、なんか作っててうれしく、満足がいくものを生み出すことができる。
もちろん、制作者が満足いくもの=周囲に受けるものではないとは思う。ブログ書いてると思わぬ記事が拡散されたり、気合いれまくって書いた記事が全然拡散しなかったり、結果なんてまったく読めない。
だから結果をきにせず、とりあえず自分が満足するものをたくさん生んでみようじゃねーかと思うのだ。
“Perfect” is the Enemy of “Good Enough”
「完璧」は、「十分よい」の敵
グレッグ・ナイバーグ
写真家のアンセル・アダムスも、この言葉をよく引き合いにだしいていたそう。
画面のなかの全てが完璧になるのを待っていたら、写真はとれない。「うまくなってから」といってセッションや合奏への参加を遠慮してしまっていたら、いつまでたってもうまくはなれない。
不完全なものから予想しえぬゴールがうまれる楽しさ。こいつこそ、デザインにも、文章、音楽にも内在し、人を惹き付けてやまない魔物だと思う。