ビジュアルファシリテーターの阿呆な研究

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可視化できないことの中にある大切なものに、人は心を動かされる

img_150503いいたいことはタイトルのとおり。
可視化できないことの中にある大切なもの=予測不可能な、人と人との間にうまれる生命のような奇跡に、人は心を動かされる。

第16回情報デザインフォーラム「つくるをつくる」にてグラフィックレコーディングをしたところ、いろいろな方からの面白い示唆をいただくことができました。
また、今日(5/2)ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」2015で渋さ知らズオーケストラを見て、共通する思いっきり大事なことが含まれていたように思ったので、まとめてみようと思いました。

情報を構造化・可視化するということ

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情報デザインフォーラムでは、構造化して可視化することのメリットが以下のように述べられていました。

  • 早く見つけやすくなる
  • 早く理解されやすくなる

グラフィックレコーディングはその最たる例で、理解のためのふりかえりとして活用しやすいツールだと考えています。
情報を俯瞰できるよう構造化し可視化されているので、流れを脳内で再現しやすいのです。

反面、大事なものとして、『そこからはみでるものも大事』という話もでました。
例えば、デザインスプリントにおける、実際自分の組織でフレームワークを実施してみたときのうまくいかなかったこと。
こうしたことを考えて自分の組織でスプリントをまわしていくことが、組織の成長につながると。

この点、常葉大学の安武先生は以下のように指摘しています。

坂田さん、馬田さん、山岸さんのディスカッションで「可視化できないことの中にある大切さ」を聞きながら、グラフィックレコーディングにおける構造化のもつ危うさについても、うんうん、と考えていました。
どんな分野であっても、分かりやすさを提供しようとするほど、深い理解が欠ける一面があるように思います。
(常葉大学の安武先生のfacebookより)

構造化・可視化された情報を安易に「わかった」とせず、『活かす』ということ

安武先生の指摘に対して、特に面白かったのがIMJ太田さん、コード・フォー・ジャパンの関さんのコメント。

太田さん:理解のあと何が起きるのか?がKPIですね。安易な「理解した感」はクリエイティブにおいてはむしろ害毒になりえますし。

関さん:TEDなども同様に「わかった気になる」問題を指摘されてますね。それでも分かりやすさを高めることで情報はより遠くまで届き、より多くの人に影響を与えるようになります。それに触れて、本気でそのテーマに対峙したい人がでてくれば、自然と深い理解が必要になりますし、掘り下げて調べるでしょう。分かりやすくすることには大きな価値があると思います。
ただ、TEDは話者=表現者なのに対しグラレコは話者と表現者が違う。この点がグラレコの面白い所です。淡々と記録し続けるのではなく、何を書き、何を書かないか、どこを強調するのか、どうグルーピングをするか。
話者の意図していない解釈も入る場合があります。
話者にとっては、「自分の話がどのようなイメージで伝わったか」を確認するツールにもなる。
講演後に話者と共にグラレコを振り返る時間が作れると、双方にとってより良い気づきが産まれるのではないでしょうか。

(常葉大学の安武先生のfacebookのコメントに対して)

「理解のあと何が起きるのか?がKPI」という指摘は最近本当に思うところです。
グラレコやって、ふんわり「その場の情報が描けるんだーすごいねー」で写真とっておわり・写真も見返さない、だと、可視化した意味ってすごく薄くなるのです。

可視化した情報は、次に活かすためのエンジンとなります。
だからこそ、グラフィックレコーダーは「この絵をみた人がその『次』をうみだすための利用状況なんだ!」と認識してグラフィックレコーディングを描くのが、一つの指針となるのではないかなと思います。
またイベント企画者の方も、その後利用するという目的をもって、イベントでグラフィックレコーディングを活用いただけると、参加者の理解が深まるよいイベントになるのではないでしょうか

例えば『LEAN UX Japan Conference 2015』で私と和波さんがかいたグラフィックレコーディング。
LEAN UXサークルの次の活動考えるときのアイディエーションとして利用してくださると主宰の坂田さんが言ってくださいました。
また、HCD-Netフォーラム2015 「HCDの明日 -これまでの10年、これから の10年-」では、浅野智先生が「キーワードに学ぶHCD」というセッションを開催されます。
浅野先生は「グラフィックレコーディング、今後の利用を前提とする」とおっしゃっていたので、その利用方法に応じた切り口でグラフィックレコーディングを考えます。
(人間中心設計とかUXに興味あるけどはじめてだよーという方はぜひご参加を!!相当わかりやすいはず!)

構造化・可視化されない情報とは何か

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グラフィックレコーダーとして私が大事にしていることの一つに、「その場ならでは、その人ならではの発言はプライオリティ高」というのがあります。
登壇したプレゼンをただ構造化するなら、正確なプレゼンのスライドを見てねーのほうがよっぽど正確だと思うので。
そうじゃない、その場の空気、参加者、流れをうけて、その人が発言したものをひろいたいと考えています。

これは、ジャムセッションの考え方にすごく影響を受けている部分。
ジャムセッションって、誰かの音やしぐさ、参加者の様子、すごく多様なものを見て聴いて、アイディアをえて音楽を生みだすという遊びです。
発話者以外の誰かがいないと絶対に成り立たないし、その人間同士の間の緊張感からうみだされる「次に何がおこるかわからない感」こそが、音楽好きな人たちの心をとらえるものだと思います。

この点、田附さんがブログの指摘がおもしろかったので引用します。

(中略)パネルディスカッションなどのように複数人が意見を交換する「対話」の場合には、レジュメとしては役立ちますが、予定調和ではない対話の中で見えてくる緊張感とかアドリブ性のようなものが、やや薄くなってしまうように感じました。

 うまく表現できているか不明ですが、対話で最も面白い「神が宿る細部」が平準化してしまうように思います。むしろ話者の語った通りにテキストで書き起こされているほうが全体イメージが伝わるような気がしています。

 「構造化・可視化」がひとつのテーマであるフォーラムで、構造化されにくいメッセージとは何であるのか、少しずれたメタ視点で考えることができたのもひとつの収穫であったように思います。
第16回情報デザインフォーラムに参加しました。

パネルディスカッションをグラフィックレコーディングするという行為は、ジャムセッションを聴いて譜面を起こすという行為と同じなんだろうなと考えています。
音という情報を可視化したものが譜面なので。
譜面があれば、技能がある人が演奏すればその音自体を再現することが可能です。

たとえば、スコア(各パートの譜面を同じタイムラインに並べたもの)。
あるパートの動きとあるパートの動きが相似していたり、かけあっていたり、という部分は可視化できます。
演奏者は、そのスコアをみて、どのパートを意識すればいいのかを読み解くことができます。

しかし、なぜその音がうまれたのかは構造化・可視化できません。
譜面に描かれているのは、あくまでドレミファソラシド(CDEFGABC)の音でしかないのです。
結果としての音。

ジャムセッションにおける「あいつがコレ吹いたからおれはこの音で返す!」という演奏者同士の対抗心、次お前いけというダンドリストの指差し目配せからうまれる緊張感、ダンサーが指さす舞台の光のきらきらと自分の音を融かそうと試みること、それは決して先をよめるものではないし、譜面では決してあらわせないものです。

音が生まれる瞬間は唯一無二のおもしろさをもっているけど、譜面で伝わりきるものではありません。
田附さん指摘の『対話で最も面白い「神が宿る細部」』は、まさにこの『予測不可能な、人と人との間にうまれる生命のような奇跡』ではないでしょうか。

予測不可能な、人と人との間にうまれる生命のような奇跡

生命と生命の間に生じる、全く予測不可能な生命の誕生に感動するように。
人と人との間に偶然生まれる一瞬の音楽に、情報の交換に…『奇跡』に、人は心を動かされるのかなーと最近は感じています。

私はその奇跡を心の底からリスペクトしているし、その奇跡のかけらを少しでも多く可視化したいと思っています。
どんな小さな音でも「繋がったー!うまれたー!」を、音として聴き漏らさず譜面にしたい。
グラフィックレコーディングで構造化して、可視化することで、誰かの新たな理解につなげたい。
でも、それを全てできるなんて到底思ってはいません。

だから、参加者が後から利用することまで考えて、イベントのデザインに参加できるグラフィックレコーダーになっていけたらよいなーと考えています。
奇跡そのものを再現はできないけど、繋がって何かを生み出すための行動を促すことはできると思うのです。
ジャムセッションなら、相手と目をあわせるとか、思いっきり相手の思い通りになってみないとか、コードをがらっとかえるとか、すきまに思い切ってとびこむとか、予定調和な音ばっかひくようになってきたら捨てるとか。

繋がって何かを生み出すための行動は、きまりきった自分の安心ルートを捨てることでもあります。
捨てるという過程は、自分をさらけだすようで本当に怖いです。
私は吹奏楽の譜面文化でそだってきた人間なので、3年前位にジャムセッション始めた頃は怖くて「もう帰りたい」って舞台裏で涙目になってたくらい。

今もまだ舞台に立つのは怖いです。
それでも舞台に立てるのは、人の演奏を受け入れて、変化を楽しんでくれる仲間がいるからにほかなりません。
つながれる仲間がいて、心からリラックスできるからこそ、繋がって何かを生み出すための行動がとれて、奇跡はうまれる。

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」2015では、そんな仲間が二人、渋さ知らズオーケストラとして参加してきました。
最初の演奏では普段みせないような緊張した顔をみせていたけど、後半にいくにつれてどんどん音も体ものってきたトランペットの池谷さん
広い広い東京国際フォーラムの舞台で、よく通る涼やかな声で歌い、三線をひいていたよーこちゃん。

二人をみていて、ふと浅野智先生の言葉があたまをよぎりました。
「若いエキスをチューチュー吸わないと。」
ああ、きっと、渋さ知らずダンドリストの不破さんも同じ気持ちなんだろうなと思います。
新しい人とつながって、奇跡をおこしながら、自分を壊していく。
その先に、自らの再生と成長はあるのだと。

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