この記事はファシリテーター Advent Calendar 2015 6日目の記事です。
高柳さんからのお声掛けいただき、執筆することにしました。
お恥ずかしながら、体調不良により、1日おくれでの投稿です。
2015年は、ファシリテーションに向き合う年でした。
私がファシリテーションに出会ったのは2004年頃。
A SEED JAPANという環境NGOで会議の進め方研修として学んだのがきっかけでした。
会議を時間内に、目的どおり、実りある議論にするためのもの。
横道にそれないよう、うまく導くもの。
それが私にとってのファシリテーションだったのですが。
今年、その認識ががらっとかわりました。
『自分が導く』ではなく『参加者の思いが溢れだす』へ。
『ひとりで』ではなく『バディといっしょに』へ。
『自分が導く』ではなく『参加者の思いが溢れだす』へ。
7月にDevlove関西でのグラフィックレコーディングワークショップを終えた時、私は「導ききれなかった」という後悔・反省でいっぱいになっていました。
つきつめると、自分の理論通りに進めよう、徹底しよう、という感じ。
あーもうもうもう。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。運よく成功する時もあるけれど、「わからない」「なんかもやっとする、違う気がする」という空気になったときの立て直しがすごく苦手なのだ。
別にそれはワークショップに限らず、会社の教育でも同じで。
この立て直し、どうやっていいのか私はわからなかった。
その後、ファシリテーターとしてワークショップ設計していったり、『かかわり方の学び方』など本を読んでいく中で。
自分の中でもやもやぐらぐらしてた、ファシリテーターとしての場への向き合い方を、一気に変える言葉に出会ったのでした。
「教える」から「溢れだす」。
私でいうなら、「伝えるものづくり」から「溢れだすものづくり」だなと思った。
何がでてくるのかわからないものを産むために必要なのは、溢れんばかりの参加者の頭の中とか気持ちだ。
そしてその溢れるプロセスをつくるのが、自分のあり方だと。
ディレクターとかファシリテーターとかグラフィックレコーダーとか、なんかいろいろ役はあるけど、全部一緒なのだ。
「伝えるものづくり」じゃない、「溢れだすものづくり」へ
溢れだす場をどうつくろう?
その一点の問いを考えるため、会議の設計、ワークショップの設計、ファシリテーション、グラフィックレコーディング、色んなところで色んな役目を挑戦させてもらいました。
その中で何より感じたのは、やはり私の強みは『描く』ということ。
絵が描けるとかグラレコどうこうより、体が一気に場をつくるモードになれるのです。
反面、弱みは、『自分自身を見失う』ということ。
自分の身を守るための感情=炎に焼きつくされて、結局どうすればいいのかわからず立ちつくす、逃げたくなるという部分でした。
ああ積年の弱み・・・・。
この弱み部分と向き合うのにおもしろかったのが、プロフェッショナル・ファシリテーター—どんな修羅場も切り抜ける6つの流儀に記載されていた、マインドのコントロールのために、体を使うという部分。
自分自身に炎がつきそうになった時の体の変化(スイッチ)を認識する。
感情をあるがままに認識して、何が起きているのかを自問し、呼吸を繰り返す。
私は普段頭がっちがちに動いて体をほっぽらかしてた分、体をいざつかってみると、おもいのほか体って正直だなあと感じやすかったのかもしれません。
頭より、体が先に状態を認識していることが何度もありました。
じゃあうまくそこから炎に包まれずに前へ進めたか、というと、全てがYESではないんだけど。
「うわあ一人じゃ炎にのまれるって体がいってる!場をつくるのに危険!」と思ったら、すぐにリカバリー策をうてるようにはなってきました。
それが『バディといっしょに』。
『ひとりで』ではなく『バディといっしょに』へ。
バディはその時々で、直感的に頼んでいます。
自分が炎にのまれそうだなと思ったら、「どうしたら場をつくれるかな?一緒に考えてもらえませんか?」という問いをもって、この人だ、という人に話に行くのです。
最初は「バカだと思われるんじゃないか、責任放棄じゃないか、考えてないって思われるんじゃないか」とびくびくしていたのですが。
弱さをそのままさらけだしたら、弱さを受け止めてくれる人が、ちゃーんといました。
不思議ですね。
「導こう」と思ってた時には、一緒にやる人に意思伝達しなきゃと思う分「時間かかるなあ、一人でやったほうが楽だよなあ」と思っていたのに。
「溢れる場ををつくろう」と思うと、自分の弱み=炎に飲まれやすい部分のコントロールを助けてくれたり、一緒に風景をみてくれる人の存在がとてもありがたく感じられるようになりました。
バディと一緒にやるとき、私は一個心に決めていることがあります。
バディのいうことに100%のっかってコール&レスポンスをする、ということ。
私はほっとくと暴走ソリスト気味で、周囲の音を聞かない残念なプレイヤーになりがちなので。
自分からはじめるんじゃなくて、まずは相手の音をしっかりきいて、その音の中にとびこんでいくのです。
自分と仮に違う意見だとしても、うけとって、ひろげてみる。
その拡げるプロセスのなかで、自分になかった音=視点が得られることが本当に多かったです。
音がうまれた瞬間、みんなが気持ちいい。
自分一人で導こうとしてたときには、決して見えなかった風景が見えるのです。
——
2015年は、随所で自分の力が足りず、時にどうしようもない炎に自分自身が焼かれたり、人を泣かせてしまったり、人にいったところでどーしょーもない弱さを人にぐちぐちいってはあきれられたり、守り切れず傷つけてしまった人がいたりと、反省の多い1年でした。
ファシリテーションを捉え直したからといって、実現できたことなんて、(特に会社という)組織においてはほんのわずかな成果しかなかったと自分では感じています。
でも、道はこっちにあるという感覚はやっぱりどこかである。
「ファシリテーターとして動きたいんです」
とここ数年お世話になってる上長にいったところ、「調整役をやりたいの?」と返答をもらいました。
「暴走がきみの長所なんだから、調整するなんて君らしくない。暴走してよ。」とも。
時には、はたからみたら調整してるようにも時には見えるのかもしれないけど。
私にとっては、ファシリテーションは、走り出す力をもらう行為に他ならないのです。
暴走して新しい景色を見るために、私はそばにいてくれる人がいるととてもうれしい。
同時に、新しい景色をみたい誰かの弱さもそのままうけとめて、横に寄り添っていけたらいいな、とも思う。
一人じゃいけないところにいくために。
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