ビジュアルファシリテーターの阿呆な研究

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専門家として現場でモヤモヤした時に助けとなる、文化触変のモデル図

img_161127_katei家の引っ越しやら、毎月のワークショップ等々続き、ブログを書くのがすっかり久しぶりになってしまいました。
気が付けば、あっというまに師走の手前。
今年一年は専門家としての、現場でのあり方をこれまでにないくらい考えた年となりました。

私が会社で目指す位置は、家庭のためにごはんをつくる「おかん」なのだ。
台所(=現場)でごはんをつくる。
ごはんをつくるために、家計・家族の状況・栄養(=ビジネス・定性分析・定量分析)を考える。
時に手抜きで美味しいものをつくる(=理想のプロセスじゃないけど成果でるよう案件仕上げる)。
できるだけめんどくさくないよう洗い物減らし、食器を洗って片付ける(=技術的負債を返す)。
家族もまきこんで料理を教えて自立できるようにする。(=教育)
納期中心デザイン・KPI中心デザインの現場で、UXデザイン(人間中心デザイン)をするということ

2年前と今の状況~『HCD-Net認定専門家交流ラウンドテーブルイベント「人間中心設計専門家と一緒に考えてみよう」』のスライド~を比べると、このスタンスはおもしろいくらい変わっていません。

即興で どうにかする力 ~家庭の料理→HCDに活かす ~ from Azumi Wada

現場で実践はつづけつつ、スタンス保ちつつ。
やっぱりずっとずっと葛藤はあるので、「わかってるのになんで葛藤するんだろう?」「この葛藤ってなんなんだろう?」と不思議に思いながら付き合っています。
というわけで本日は葛藤メインにつらつらかいていこうと思いました。

現場での葛藤を感じる瞬間

「このままだと専門家として対応してる現場は限られている=できることなんて限られているのでは?」という疑問

まずこれ。
現場の状況って、業種・商材・オペレーション・人・技術・金銭・権限etc多種多様な環境に囲まれているので、そのなかでできることって限られているのだと思います。
その中の、ごく一部の現場でやりえる範囲なんていったら、大して広くはないと思います。
身も蓋もないけど。

その中でやりえる工夫というのを行うと、どうしても何か大事なことをダウンサイズしているような感覚にもとらわれます。
メソッドをしっているからこそ、罪悪感が生まれてしまうんです。
そして仮にプロジェクト中でうまく活用したとしても、なぜか持ち続けられる罪悪感。

私自身、スライドでだしている例で「HCDのプロセスを、ちゃんとやれてる」なんて一回も思っていません。
むしろ「うおりゃー私は家庭のおかんなんだからしゃーねーだろう!!完全なプロセスなんて無理じゃあ!!どうにかしてやるわこんちくしょー」という気持ち。
そんな状況なので、周囲から「azumiさんはちゃんとやってるから」といわれると、その差分が奇妙だなーと感じます。

あと、現場で慣れれば慣れるほど、現場を理解しているからこそとりいれられる上限も見えてしまい。
結果、同じことの繰り返しをしているように感じてしまうのです。

声をあげたところで、重要性が周囲に伝わらないように感じる状態

組織やプロジェクトの状況に応じて、賽の河原のように、積み上げてはまたなくなり、積み上げてはまたなくなり、、ということも発生します。
実際、私は一緒にディレクターとして開発をしていたチームが事実上解散し、私は他のメンバーと異なる案件に一人アサインされ、各々が異なる部署や立ち位置になったところ。
組織でユーザーインタビューもユーザビリティテストも実践されないという状況に直面しました。

専門家として何ができるんだろう?と考えると、まずでてくるのて「ユーザーインタビューやろうよ、ユーザーテストやろうよ」というような声掛けです。
でも、その声だけで、現場にいるメンバーがやるかどうか?というとNO。
だって、必要に感じられてない(=なくても仕事がまわる)のだもん。

HCD(など、他の思想&手法)がすべてをすくうわけではないとわかりつつ、そこを頼んでしまう自分の弱さ

ものすごくわかっているんです。
銀の弾丸なんてないし、思想&手法がすべてをすくうわけなんてないと。
わかっていつつも、案件でうまくいってないと「HCDのこの手法使えるかな?」と思うし、でも組織的等な制約でできないとわかると落胆します。
そういうのが積み重なると、「自分はこの組織で何をやれるんだろう?」という無力感に繋がってしまうのです。

また、プロジェクトで導入した手法があったとしても、ビジネス的にうまくいくかどうか?というと絶対YESとはいえません。
そのときに、思想や手法を背骨にしていればいるほど。
「自分がやったことはなんでうまくいかなかったのか?」という思いにとらわれて凹むか、「自分は精いっぱいやったんだ(あとは制約があったからしょうがない、はまだいいけど、下手すると〇〇が悪いみたいな方向)」と、正当化するかのどっちかにふれてしまう傾向にあるのかなと感じます。

いずれにせよ、過度な自責、過度な他責をよびやすい。

組織として導入が進んでいるチームの「当たり前」を見て、苦しくなる

たぶん、専門家が一番葛藤するのって、他の進んでるチームを見たときなんじゃないかな、と思います。
組織として導入してうまくいっている事例があるのに、なんで自分たちはそういけないんだろう?って。

そしてそういうチームの人から「それってあたりまえでしょ?」と言われればいわれるほど、当たり前じゃない自分は苦しくなる。
罪悪感ももっているから、「そうなんですよね・・・」と愛想笑いして、そして帰り道に落ち込むのです。

文化触変の過程から、現場をとらえる

「これを学べば、今の現場をよりよくできるかも!」と感じてある専門分野を学びはじめたけど、学べば学ぶほど、現実との乖離に悩むことが増える状態。
自分自身「ああ自分、ぐるぐるしてるなー」と思ったとき、必ず開く本があります。
それが、平野健一郎先生の『国際文化論』。
(平野先生は早稲田大学政治経済学部政治学科で教鞭をとられてたとき、『人と文化の国際移動』というゼミを先生は開いており、私はそこのゼミ生でした)

国際文化論の好きなところは、ある文化(例:近代化をすすめた欧米の文化)=よいものとして断定して社会を見るのではなく、文化をシステムとしてとらえて、接触と変容をとらえるという点。
その中で、特に役にたつのが、文化触変のモデル図

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文化触変は、基本的には、一つの文化が旧平衡の状態から新平衡の状態にいたる過程であると考えられる。したがって、この図はフローチャートとよぶこともできる。
文化をシステムとしてみるとすれば、その変動はこのようなフローがシステムのあちこちで繰り返し発生しているものと考えなければならない。

どの一点をとっても、文化は決して固定的なものではなく、たえず動いている。いつもどこかに変化が起こっている。
しかし、全体としては、大体安定した状態にあり、継続性が維持されると考えることができる。

しかし、その安定が部分的に大きく崩れることがある。
崩れたままの状態では、人々の生活を支えるという文化の意義そのものが失われることになるので、ほとんどの場合、その混乱状態を一時的なものにして、新しい安定、平衡状態を獲得しようとする動きが文化の内部に生じるものである。
文化の一部に混乱が始まって、それがどういう風に落ち着くのかを現したのが、この図であるともいえる。
『国際文化論』より引用

開発現場も一つのシステムとみたてたとき、各種専門家の持ち込むものは『外来文化要素の伝播』に相当します。
そして文化を提示したとき、受け手側では必ず選択されるわけではなく、『フィルター』によって跳ね返される『拒絶・黙殺』があるのがポイント。
この『フィルター』は受け手側の人々の意思・選択が果たしている役割です。

この『フィルター』を通るのに必要なのは、必要性と適合性。
必要性:人々が実際の生活のために感じる必要性があるかどうか?
適合性:受容側の文化に以前から存在する文化要素に適合するかどうか?

外来要素の伝播・呈示の担当者は『文化運搬者』とよばれますが、文化運搬者の役割は呈示までで、フィルターに通すか通さないかは受け手側の必要性・適合性の問題なのです。
さらに、そこからは一度文化をうけいれたけど『抵抗』して再びフィルタに戻ったり、新しい解釈がなされて周辺の文化要素が加わり『再構成』がなされたり。
その結果生まれるのは『新しい平衡状態』

再解釈・抵抗の段階でいもづる式効果がどんどん波及して、その文化の担い手たちが思ってもみなかった変化が生み出される結果になるかもしれないが、人々はそれを新しい時代の文化と受け入れ、それによって新しい生活をしていくだろう。
『国際文化論』より引用

つまるところ、新しいものを持ち込んでも、すでにある文化の中で同じ形で再現されることなんてない・・・。
なので、「イケてるこの手法の考えを、そのとおりに新しい現場にもちこもう!」と思うこと自体が無理筋なわけで。
システムの中で思ってもなかった何か=『新しい平衡状態』が生み出されるのこそ、本当のゴールなんじゃないかなと思うのです。

文化触変は、受け手の文化およびその担い手の人々が主体性を発揮して、外来文化要素と在来文化要素とから新しい文化を創り出す創造の過程である。
『国際文化論』より引用

というわけで。
国際文化論の考え方を現場で適用すると、けっこう専門家としてのモヤモヤもはれてくるのです。
困ったときに、「今自分はどこにいるんだろう?」という問いをもってみるとおもしろいかと!

『「このままだと専門家として対応してる現場は限られている=できることなんて限られているのでは?」』
・絶えずシステムは変容しているので(少なくとも時間軸では必ず!)、その変容の中でやれることも必ず変わる。
・現場って、別に勤めてる会社の案件だけじゃない。その思想が有用なのであれば、自身が運搬者および生活者(文化の受け手側)として活かせる部分が必ずある。
※私は今の現場の人、商材が好きだし、不妊治療はじめ『助けてもらえる』担保があるので、現場すべてをうごくということは今はしたくない。

『声をあげたところで、重要性が周囲に伝わらないように感じる状態』
・フィルターで『拒絶・黙殺』にいるんだなーという状態を認識する。
・必要性、適合性が「今はここにはない」を自覚する。(自覚しないとウザい人扱いになる←いや私自身やりがちなんだけどさ)
・なんでもかんでもぶっこもうとせず、「必要性、適合性のありそうなところってどこか?」を、現場を観察して探す。

『HCD(など、他の思想&手法)がすべてをすくうわけではないとわかりつつ、そこを頼んでしまう自分の弱さ』
・文化の構成要素なんざそもそも多様に存在し、自分が背骨とする手法なんてそのわずかな1つでしかないと自覚できる
・周辺の状況に応じて、大事な『文化=生きる工夫』なんざかわるもの。「うまくいかななかった」ことによる、過度な自責も他責も必要なく、「じゃあどんな生きる工夫が必要なのか?」を学びにいくほうが組織のためになる。

『組織として導入が進んでいるチームの「当たり前」を見て、苦しくなる』
・そこは違う文化圏!!自分たちのシステムと同じものとしてみない!!
・むしろ、自分は自分で、『外来文化要素と在来文化要素とから新しい文化を創り出す創造の過程』を楽しむことに集中する。
・再解釈として生まれたものは、誇っていい文化!ひとつの成果物。

※なお、この国際文化論で注意したいのは、とある文化を導入するための手法を示唆するものというわけではない点注意。
国際文化論自体、文化の優劣つけずに、等しくシステムとしてとらえたときに何がおきているか?をとらえている考え方なので。

※文化の伝播に、必ず国による政治や経済=組織的な意思決定は相当大きく影響します。だから、企業のような組織全体で取り組んだ行為は非常に強いと思っています。
じゃあ組織的な意思決定がないことは無力かというと、決してそんなことはなく。
ただ、現場にいる主体は『人』であり、『人』が動き続けるからこそ仕組み(システム)が変わる、というのが国際文化論の視点であり、その視点で現場や国際社会をとらえることは価値があると私は考えています。

人と一緒にものづくりをしていくのに大事だと思うこと

『外来文化要素と在来文化要素とから新しい文化を創り出す創造の過程』を楽しむために大事なことが一個あって。
多様性をうけいれる=いろいろな視点からでてきたものを活かして、ものをつくりつづけるという姿勢だと思うのです。
書くのは簡単だけど、実際やると難しいことこのうえない!

何かの技術を学ぶと、「この技術を極めた人たちとしか仕事したくない」という謎の欲望が芽生えることがあります。
わかってない他の人が、バカに見える瞬間。

もちろん、技術を極めた人たちとしか仕事しないという手法もありだとは思うのですが。
そうすると学べば学ぶほど、一緒に仕事をできる人がどんどん減っていってしまうのです。
結果的に、同じような人と、同じようなものしかつくれなくなる。

私が上記のスライドで『即興』といったのはまさにそこへの反発で。
誰がどんな音を発しても、たとえ音程にならない音でも、そこから音楽を発想し、生み出す姿勢そのものが『即興演奏』のマインドだと思うのです。
最近はこの発想のプロセスこそ、自分が集中すべきところじゃないかと考えています。

開発現場でのHCD(人間中心設計)は、即興演奏での楽器のようなもので。
私は打楽器奏者→スティールパンという背骨あって、即興演奏ではたまたまスティールパンを担当しているにすぎません。
別に、他の楽器をやってもいいんです。
(というわけで時々楽器、ミニスティールパンでアゴゴベル的に遊んだり、リコーダー吹いたりもしてます。バンドメンバーも同じく、サックスの人が尺八ふいたり、歌と三線とか、ベースとトランペットととか、トランペットとほら貝とか、もはやよくわからん。)
何を楽器にしていても、マインドセットさえあれば発想はできるし、楽しい音楽は生み出せるというのを体感できます。

webサービスの現場で活きている「場にあるものをとりいれて、そこから発想する」は、料理からと同時に、音楽にかかわる人々から学んだところがとてもおおきいです。
webサービス開発の現場、ワークショップデザイン、ファシリテーションおよびグラフィックレコーディング、音楽、家庭。

これからも、時にぐるぐるしつつも、文化触変の図をみて気を静めて、発想していくことに集中したいと思います。

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