ビジュアルファシリテーターの阿呆な研究

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コンセンサスデザインフォーラム2017で、サービスデザインで生きる在り方を考えた話

3/4(土)、コンセンサスデザインフォーラム2017に参加してきました。
テーマは「〜なぜ、協働はうまくいっていないのか。ーみんなで今よりさらに前に進むために学びあう場〜」。

協働ということばはとてもよくつかわれているけれど、よくわからないもやもやは昔からあって。
一緒にいろんな人と何かをつくりたいという願いがあっても、自分の心にわいてくる、どうしようもない拒否感とか、対話しようがないように見える人とか、戸惑いとか。
相手が背負っているものを理解すればするほど、その背負うもの自体を自分が変えることはできないことも感じるのです。

気になったトピック

対話が苦手なことと、「一緒に考えて!」ということばの力

「目的のある話はできるのに、自由にはなしていいといわれると、何を話していいかがわからない。」
西尾さんの話が、ああ同じだなあ、よかった、という気持ちになりました。

「この場で何をいうべきか、こんなこといったらおかしいと思われるのでは、ちゃんとしたことをいわなきゃ」
そう思っていったことばはすぐにでてくるけど、体はがちがちで、なんかどこか空中に消えていくようなかんじで。
自分の気持ち、はなしたいこと、通じ合いたいこと。
しっかりつながったことばをだすことに、時間がとてもかかるのです。

「市長は決める人でしょ、なんできめないの?対話なんて必要ないでしょ、といわれることもある」
そんな谷内さんからのことばをきいて、そうした関係性の固定化が自分の中にもあるのかなあと感じました。
会社の中である方向に対して必要な言葉を発する訓練はできていても、その訓練で体が固まってしまってしまってる。
自分の感じるものをさがしてすくうのがむずかしくて、それをひろっても、価値があるのかどうかが不安になる。

そうした関係が固まり切っていくと、自分で何かができる感覚がどんどんしぼんでいくなと思います。
そのときにその感覚を打破してくれるのって、実は他人からの「あなたはできる」「アドバイスして」という言葉ではなくて。
西尾さんの話にあった「一緒に考えて!」という問いかけなんだろうなと思います。

牧之原市長西原さん「発揮できる場が必要」


自分が協働の場で、何かをつくっていくことに葛藤を抱えている、けど前に進みたくてあがいているという話をしたところ。
「協働はやりたい人だけでやってはだめなんだよ」と、牧之原市長の西原さんから返事をもらいました。
「反対する人は6-7割はいる。まずそこをきく。そして、「あなたのその指摘は正しい。」と認めて、そして「だからこそ、あなたが仲間に入ってよ!」と促す」と。

話をきいていて、自分の中に恐怖があるんだなというのを思い出しました。
・反対する人がいて、誤解だったり、認識違いや視点が狭いなと感じたとき、「このまま話が進むのは嫌だ!」と思って反射的に正論でかえしてしまうことがある
・結論でないことへの恐れ。
そこに関しても、「なりをなおす。それは失敗ではなく、プロセスだと伝える」というのだと。

評価して要件みたしてないことがわかったら。
「こういう解決策(もしくはこういう要件)は、仮説に対しては有効でなかった。じゃあ次はこうしよう」として、またもどるプロセスに進めばいいというHCDプロセス(デザインのプロセス)とそこって同じなのよね。。
デザインのプロセスだと見えるのに、実際の場だとあわわわわとなってしまうので、まだまだ鍛錬していかねばと思います。

そして、「間違った協働は主体的ではない。主体的に力を発揮できる場・政策が必要」という言葉の強さがとても印象的でした。
牧之原市は実際に、市民グラフィッカーが様々な場で会議や対話を可視化しています。
グラフィッカーの方も「そういう場が牧之原はたくさんあるよ!」と楽しそうに話していました。

牧之原の市長、そしてグラフィッカーと話しているうち、「あれ、これってサービスデザインだよなあ」とピンときました。
誰か特定のできる人ができて、教える→学ぶという関係性の固定が発生するだけでは意味がなくて。
学んだ人が主体的にまた活躍して、どんどん場に問いをなげこんで、有機的につながっていける生態系を生み出し、営むこと=サービスだなあと感じました。
均質化した生物ばかりがいるのが生態系じゃないのです。反対する人も当然いる。

同僚のキース・ヴァン・デル・ハイデンが、集団のプロセスは二つの相反する落とし穴に陥りやすい、と私に私的したことがある。
一方は、過度の均質化、つまり集団思考である。全員一致思考で(力不足の愛)、それゆえにその合意が間違っているのを見誤る。もう一方は過度の分化、つまり断片化である。各人各様の見方があり(愛不足の力)、それゆえに一丸となって前に進めない。ディノケン・プロジェクトは、この両極端の間をよろめきつづけた。
未来を変えるためにほんとうに必要なこと アダム・カヘン

アダム・カヘンの本を読んで、「集団思考的な結論=均質化もとめがちな自分は、力不足の愛にいくこと多いな・・・」と最近常々感じます。
結論求めず、「ここでおきることはすべて起きるべくしておこること」。


↑OST(オープンスペーステクノロジー)のワークについての説明。「ここでおきることはすべて起きるべくしておこること」、ついここコントロールしてしまいがちなんだよな、あああああ。。

超主観的グラフィックのパワー

おもしろかったのが「超主観的グラフィック」。
ランドスケープ(長い絵巻物)での全体の流れをおうグラフィックのほか、オープンスペーステクノロジーのワークショップ中には、グラフィッカーが感じてとらえたものを描き、場にフィードバックするという時間がとられました。

↓OSTはコーヒーブレイクの間にうまれる何かが創造のもとという考えからやっているのに、OTSやってもまたコーヒーブレイクがうまれていたという指摘をしたナミさん。あの時間、素にもどってのほほーんとしてて楽しかった(そしてなんか何もきにせずまわりとしゃべれてて楽しかった)~

「興味と貢献は違う」「問いと結論が違ってもいいのでは」という指摘。
実際のグラフィックは、自分たちのリアルすぎるシュールな似顔絵がかかれてたりして、全部がストーリーであるわけでは決してないのですが。
そうして場をとらえたよ、という問いかけが私にはとてもひびきました。

そうなんだよねー。
問いと結論がついにならないことじたいも、「ここでおきることはすべて起きるべくしておこること」なんだよねー。
結論がでていないなって思ったら、あえて結論促す入り方ばかりしてしまいがちだったのですが。
「そういえば問いがこういうものでしたけど、ぜんぜん違うことを話したくなっていましたね。この問い、それは本当に問いたかったことですか?本当に問いたかったことは違うのでは?」という視点もきっとありで、そんな問いかけこそ必要だった場をいくつか思い出しました。

北川先生の「時代がかわってきた。情報は提供⇒共有⇒共鳴という風になってきている」「説得ではなく、納得。対話で結論はださなくていい」という話にもつながって。
すぐに成果がでるわけではないし、長い長いプロセスの中で、いまよろめくのってとても普通なのです。
協働って、いかにいろいろな人が同じ方向をむいて考えるか、という、アダムカヘンが定義するところの『つながりと共通性に着目する「愛陣営」』につい目がむきがちなのですが。
そのために、あえて同じ方向をむかないで『利害と差異に着目する「力陣営」』の状況でうまれた何かを大事にする、そのうまれたものをベースに次をうんでいく、という両面が必要なんだろうなーと感じました。

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私はどうしても、ファシリテーションでもグラフィックでも何をしてても「愛」の力のほうが強く、グラフィックも「つなげる、共通を探す」を無意識にやっています。
それが効いてはまりまくるときもあるのですが、決してそれだけじゃないんですよね。
調和しすぎて、活気のないなんとなーくな平和な状態がつづいていたとしたら。
それは「力」がもとめられてるときであり、利害と差異に注目する視点(というか強制ギブス的に自分で自分のグラフィック、ファシリテーションに問いをぶっこむ視点、挑発的な視点?)をもっていきたいなーと思う次第です。

「なんで協働はうまくいかないのか?」の問いにぜんぜんこたえてるんだかこたえてないんだかわかりませんが。
とても問いを考えさせられる、いい時間をすごしました。

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