このブログ記事はファシリテーター Advent Calendar 2017の12/11投稿分です。数日といいながら二週間弱遅れてしまいました (゚∀゚;;)
というわけで本編開始。
12/10(日)札幌市立大福田先生からのおすすめで、第1回共創学会年次大会に参加してきたお話です。
一見秩序だってるようにみえて、相当カオスな学会。
工学、デザイン、アート、福祉、生物、身体etc…領域横断の、様々な人が集まってきていました。
そのカオスっぷりにびびる人もいるかとは思うものの。
非常に自分的には楽しいだったので、いくつか発表をきいて感じたこと、ファシリテーションを考えるときにトピックになるなあと思ったものをあげていきたいと思います。
ファシリテーター=『すきまをひろげる人』
手のひらを触れ合いながら,身体全体を使って即興的に表現をつくりあう“手合わせ表現”の経験を通じて,共創の原初には,表現する身体が息づいていることを著者は確信するようになった.
この手合わせ表現の特色は,表現の場に私自身が巻き込まれることによって,内でもあり外でもあるような感覚が触発されることにあるといえよう.
そうした時,一方が他方に働きかける「する・される」の区切られた関係ではなく,対等な関係が外側の世界をも巻き込み現れてくる.
その結果,いずれもが自分自身となって生き生きと表現するようになり,それぞれの可能性を創りあげていく.
それは,他者の働きかけによって自身の潜在的領域に埋もれていた何かが触発され,表現を深化させていくようでもある.
(三輪敬之, 西 洋子 2017)
おもしろかったのがこの指摘。
自分のコントロール可能な明在的領域と、無意識的な潜在的領域。
ビジュアルファシリテーションにせよ、即興演奏にせよ、他者による働きかけに対し自分の身体が反応し、他者へ伝播し、広がっていくことがあるのです。
それは自然と体がこうしたいと感じたから反応したもので、しかも自分がとても広がったような、不思議な感覚。
その感覚が自然とでてきたとき、直感的に私は「場に入れているな」と感じます。
「ファシリテーターはすきまを広げる人だ」と三輪先生が語られていたのですが。
オーケストラに例えると、指揮者的に存在する人も、演奏者的にいる人も、いずれもファシリテーター的な役割をする人はいるな、と感じました。
じゃあ、ひろがった『すきま』にあるものって、なんなんだろう?
『すきま』がうみだすもの
ひろがった『すきま』にあるもの。
郡司先生は、それを「脳内自己と、脳内他者が、分離しているけど相関している」「自分と思っていたものは他者からかりてきたものなのかもしれない。不可分で、でも分けられる」と話されていたのが印象的でした。
この『すきま』が生じたときの感覚や状況について、共創学会内では様々な切り口から近しい感覚を論じていたように思います。
沼田氏の『社会を聴くということ-音楽と社会のコミュニケーション-』においては「音楽療法とか、そうじゃないかって、どうでもよくなる瞬間てありませんか?」という質疑応答
『わたしの暗在的領域に潜んでいたあなたが触発され,新しい風となることが暗示されている.その結果,表現と表現されるものとが互いに包み込みあうような関係が生まれてくるのだろう.(三輪敬之, 西 洋子 2017)』
※強調は筆者によるもの
『学校で居場所を見つけにくい子どもや,発達障害を抱える子どもなども数多く参加した(最終的に数多く残った).これらの子どもやその親たちは,ほ
ぼ一様に「はじめて生き生きとできる居場所を見つけた」と喜び,本番が終わってからは,この活動を続けて欲しいという声をあげた.(中村 2017)』
※強調は筆者によるもの
『アートプロジェクトの現場ではアーティストと市民が共創する中で、寛容性が組織内で生まれる。そして、その関係性の中から市民参加者の創造力が発揮されるという循環を生む。その関係性の中でお互いの関係性は単なるする/されるの関係性ではなく、どちらの立場にも当てはまりながら議論や対話を行いながらプロジェクトが進んでいく。この状態を中動態的芸術活動と称す。(藤原 2017)』
この『すきま』ができて、他者と自分が不可分かつ分けられるようになった時の関係性(=中動態、する/される枠組みでは区別することのできない状態)を得たとき。
人間はとても力強く、何かのためとかそういうのを全部忘れて、生きる喜びにあふれるものなのかもしれないな、と感じました。
じゃあそれってすべての人間におこることなの?
人間だけなの?という疑問がうかびますが。
人間と動物で、新たな関係性を探るという意味合いで面白かったのが、銅金先生の発表。
『そこで、われわれは、まったく新しい生き物と人間の関係のあり方を構築するために、“動物や植物”、さまざまな生き物に向けて何か貢献できないか考え、ためしに彼らに向けて畏敬の念を払いつつ、「(仮称)ダブルバインドいのちの献身音楽隊(Double Bind,a Band devoted to Lives 以下 DBBL)」を結成し、比較的無害だと思われる振動か音かなにかゆるやかな音楽のようなものを奏でて、彼らのご機嫌を伺おうと考えてみた。思うに、いまや癒やされるのは人間ではない。(銅金 2017)』
動物や植物との間にそんな関係性がうまれるんだろうか?
まったく新しい、生き物と人間の関係の在り方になったとき、私たちにわきおこる感情や状況ってなんなんだろうな?
今の関係と同じ?それとも人間同士と同じなんだろうか?それともまた違った何か?
そう考えると、不思議な気持ちでいっぱいになります。
↑インタラクティブ発表で衝撃をうけた『絶滅危惧動物への控えめでささやかなショボ過ぎる提案』。
銅金先生のところの学生さん(お名前がわからず申し訳ありません・・・)による、絶滅寸前のオカピがモテるようになるための器具。
モテたら生殖行動が促され、絶滅しなくなるとのこと。
オカピさん、喜んでくれますかねえ・・・・。
なお、銅金先生は笑顔で「人間中心主義だ!人間がすべてどうにかできるなんて思ってはいけない」とのこと。
『すきま』が生みだすもの。
それはもはや誰も想像できない、でも楽しくて、はたからみたら踊り狂ってるように見えるものなのかもしれません・・・!!
というわけで、共創学会に行ってきたよ!~秩序とカオスのはざまで踊り狂う、共創のファシリテーション(2)~に続きます。
(2)では、芸術的な価値と、社会福祉的な価値のあいだの『共創』におけるファシリテーションについて論じます。
おまけ:当日のスケッチノート
※自分用のメモで、正しくない部分も含まれそうです。気になった方はこの内容を正しいものとして引用はせず、論文参照をお願いします!
参考文献
- 三輪敬之, 西 洋子, “共創に他者は必要か:実践と理論のあいだ(1)”, 第1回共創学会年次大会, 2017,p1
- 郡司ペギオ幸夫,中村恭子,”脳の中の酋長:エンタングルメントとしての意識”, 第1回共創学会年次大会, 2017
- 中村美亜,”さっぽろコレクティブ・オーケストラにおける共創ファシリテーション”, 第1回共創学会年次大会, 2017
- 藤原旅人,”芸術創造活動における主体(アーティスト)と客体(市民)の共創から生まれる中動態的芸術活動の意義と課題に関する研究”, 第1回共創学会年次大会, 2017
- 銅金裕司,山田龍平,”あなたは人以外の生き物の役に立てるか?”, 第1回共創学会年次大会, 2017
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