ビジュアルファシリテーターの阿呆な研究

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Designing Oursを読んで、これからのデザインとノンデザイナーの関わりを考えた #designingours


故・渡辺保史氏の遺稿「Designing ours:『自分たち事』をデザインする」をオンデマンド出版するプロジェクトで出版された、『Designing Ours』、無事に届いたので一気読みしました。

というわけで、読書メモ&心にささったセンテンスから考えたことを中心に、感想文を書こうと思います。

↓読書メモ(※超overview、そして自分的にささったとこ中心)

揺らぐ自分の足元と、『自分たち事』への向き合い方、デザインの担う役割の変化

戦後以降、公共を担ってきた行政(そして時に市民活動)では担いきれなくなってきたさまざまな『自分たち事』。
そうした部分を、価値観が多様化して、人口も経済規模も縮小していく日本の中で人々がどうとらえていくのか?
そんな問いを、政治の分野でも、行政職員の話からも、テレビでも、昨今とてもよく聞くようになっています。
『Designing Ours』も、そんな問いかけと私は受け取りました。

領域を超え、多様な人々と共にコミュニティで取り組んでいこうという問いかけ、多方面から今起きているな、と感じています。
福岡市の今村寛氏や、山形市の後藤好邦氏といった、地方の行政職員の方々
・山崎亮氏の『縮充する日本 「参加」が創り出す人口減少社会の希望 (PHP新書)』

渡辺氏が東京から移った函館市も、まさに縮小していっている都市。
あると思っていた、描いていた未来がない。
そうした状況は、今地方や一部の産業で進行している反面、東京のような大都市圏に住んでいると「まだ大丈夫かな」と思うんだけど。
自分の身の回りにも、少しずつ、少しずつ、近づいている音がきこえてきて、そう遠くない未来に直面するような気がしています。

新たなものを創造していくデザインという分野も、もちろんその影響をうけるわけで。
そんな中、情報デザインということばが含む意味も、おのずとかわってきたのだと認識しています。

情報デザインとは単なる情報発信や表現の技法などではなく、人々が関わり合う場としての「コミュニティ」を基盤になされる、社会的な営みであるという「予感」
Designing Ours より引用

ただ、web業界にいた私としては、このあたりのことを感じたのはここ数年でした。
web自体が、資本主義における『周辺』で、技術の進化に伴いどんどん『周辺』が拡がっていく業界だったので、「技術をわかってつくれれば売れる」状態だったのです。
でも、その周辺もどんどんなくなって、webでのサービスが飽和気味になってきて。
「どうしたらもっとサービスを成長させることができるんだろう?」という思いで、私は人間中心デザインの学問の門をたたきました。
当然、情報デザイン=単なる情報発信や表現の技法と理解していたところ。
・・・結果、その問いも、情報デザインの定義も、根底から覆えりました。

少量少品種生産だったのが大量生産に変わったくらいに値する状況(デザイナーの役割含む)大転換が、今、デザインという分野におきていて、その転換点に今の私たちがいる。
5年前の渡辺先生の示唆は、今の私たちにとても突き刺さるメッセージな気がしてなりません。

ノンデザイナーとして、デザインの仕事に関わるということ

本書では『デザイナーはつなぐ人』『コミュニティの人々自身による解決を支援する専門家』として提唱されています。
また同時に、ノンデザイナー(デザインの非専門家)についても、論じられています。

人々が、自ら豊かな経験を創造していくための、支援の場や仕組みや関係をデザインすること。企業や行政の事業を、こうした視点にもとづいて再定義し、再編していくこと。デザインの知は、ワークショップやファシリテーションといた参加・体験のための知と結びつくことによって、いま新たな次元を切り開こうとしている。
(中略)
デザインの思考や方法は、デザイナーの占有物ではない。構想し計画するための知は「自分たち事」のためにも不可欠だ。
Designing Ours より引用

デザインの次世代スタンダードといえる、デザイン思考やサービスデザインの発想や方法を身に着け、使いこなしていくことは、ノン・デザイナー(デザインの非専門家)にとって一体どんな意味を持つのだろうか。
Designing Ours より引用

役割の変化にともない、私のような(デザインの専門職ではない)ノンデザイナーが活動する領域もでてきていると感じる反面、私はどこかうしろめたさを感じています。
「デザイナーと同じようにはできないな」という、後ろめたさ。
(情報設計のスキルは一応あるけど)精緻なグラフィックが描けるわけでも、プロダクトデザインができるわけでも、商業用イラストが描けるわけでもないので、決定力のある形づくりに貢献できてないことに関する謎の申し訳なさが常にあるのです。

じゃあ自分は何ができるのだろう?

このあたりは、もう過渡期ならではの葛藤として、ゆらゆらしている状況、割り切るしかないのかな、と思います。
今、ノンデザイナーの私としてはファシリテーター・・・「デザイン思考やサービスデザインの発想や方法を身に着け、使いこなしていく」プロセスにおける、ビジュアル用いた参加の枠組みをつくっていく、まきこんでいく・・・そんな立ち位置で日々やっています。
また時間の進行や、自分の状況によって役割は変わるかもしれないし、そこについてくるラベルがどうなるかわからないけど。
その役割やラベルが、未来のデザインに関わる人たちのアイデンティティになると信じて、切り開いていきたいなと思っています。

ノンデザイナーにとって、、デザイン思考やサービスデザインの発想や方法を身に着け、使いこなしていくことがどんな意味を持つのか。
数年後、いいかんじにこの問いに答えられるようがんばろうと思います。

『自分たち事』が生まれる条件と、自分の在り方

さいごに。
『自分たち事』が生まれる条件については、サービスデザインの現場、コミュニティを育んでいく現場で、身体で考え続けていきたいと思いました。
特に、『リーダーはいない、相互の役割分担で動く』の部分。
私が一番あり方として変えていく部分なのかな、と読んでて感じるし、自分の仕事の仕方を振り返っても反省点なので。。。。
(私は明示的に自分がリーダーになるorリーダーがいる場合枠組み決めて動く、というタイプのため。
前職の上司からは『監督の言葉に忠実な司令塔で、固い!』という評価だったのです、ぐぬぬぬぬー。)

・単一の組織やコミュニティに閉じていない
・自分のプライベートで完結していない
・自分自身から生まれたものもあれば、他者からもたらされるものもある
・異なる世代、異なる分野(の知見を持つ)の人が集まっている
・共有された「場」が存在している
・関わる人それぞれに持ち寄る「資源」と持ち帰る「成果」は様々
・「永続」は必然ではないが、連続した「文脈」はある
・「道具」の使い方に自覚的(意識的)である
・関わる人の間での共感・信頼・寛容
・恒常的でなくてもよいが、必要に応じて即座につながること
・リーダーはいない、相互の役割分担で動く
・出来事の文脈が「ログ」としてアーカイブされる
Designing Ours より引用

人間のあり方を変える、なんて、一朝一夕でできるものではとてもないですが。orz
ものの作り方を変えて、新しい作り方の文化を積み重ねていくために。
私は今、サービスデザイン実務の他、不妊治療進めることがカギになりそうかなあ、と思っています。

なんというか、今の『自分』にとっては、家族が増えて初めて、見える景色、感じるものがあるんだろうなと思ったのです。
(これは自分自身予感もするし、前職の複数の上司からも同じようなコメントもらったので、たぶんなんか変わるんだと思う。)
結果が成功するか、難しいかはさておき。
手探りで進めながら、自分なりの『自分たち事』が生まれる条件模索し、新しいキャリアを進んでいこうと思います。

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